日記-2

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到着

26日 火曜

Arrival in Japanトム-「僕達は、土曜の夜(23日)日本に着いた。それから、東京で雑踏の中を駆け回り満員電車に体を押し込んで、資金を整理したり、携帯電話を買ったり、ビザを延長しようとがんばっている。早くこうした仕事をすべて終わらせて、旅を始めるのが待ち遠しい!来週初めには、出発したいと思っている」

210日 土曜

トムとポールは、船で鹿児島へ向かった。そこからフェリーに乗り鹿児島よりもっと南にある小さな火山島、屋久島へ。そこから、百名山の旅が始まる。

ポール-「東京から宮崎へフェリーの旅21011日)はすばらしかった。眠ったり、畳の部屋でくつろいだり、お風呂に入ったり、ビデオを見たり(くだらないけど、ま、いいじゃん)、少しぶらぶらしていたら、あっという間に22時間過ぎていた。そこから鹿児島まで電車に乗った(電車の旅は2回に分けた。途中何も無いところで降りて一晩線路脇でキャンプをし、次の朝早くまた電車に乗った)。それから、旅を始める屋久島へ行くフェリーに乗った」

旅、始まる

212日 月曜

1日目

週末、日本を南下したトムとポールは、これから始まる旅で一番目の山にある小屋を目指した。その山は、宮ノ裏岳。「宮の裏にある山」という意味だ。彼らは、道に迷った。雨が降っていた。寒くて震えた。

A rainy view to the coast一番目の山は宮ノ裏岳、年間300日雨が降る屋久島にある。もちろん、僕たちがそこにいる間中、毎日雨が降っていた。かなり降っていた。周りの物全部、本当に全部びしょびしょで、仕舞いに自分たちが持っていたほとんどの荷物も湿気た。午後フェリーを降りると(午後3時くらいに到着)、ひとりの記者に会った。彼は、チャリティー団体が送っていたプレスリリースで僕たちのことをすでに読んでいたのだ。雨の中、簡単にインタビューと写真撮影を済ませ、ついに僕たちは歩き始めた。乗り物をたくさん乗り継ぎ、ビザ問題など東京でかなりいらいらした週を経て、やっと始まったのだ。

午後4時、自信たっぷり山に入り、雨を避けて眠れる乾いた山小屋を目指した。3時間ほどで着くはずだった。6時間後、僕たちは駐車場に着いた。あれこれ考えずに始めからその道路をたどっていたら行き当たるはずの駐車場だった。まだ、小屋まで2.7キロもある。でも、これからルートを示す小さくて、不規則なピンクのテープをたどる気にはなれなかった。僕たちがとったルートは、持っていた英語のガイドブック推薦のルートで、ふもとから歩くなら一番の近道だったかもしれないが、今ではあまり使われてなく、雨と闇の中でたどるのはちょっと難しかった。

僕達は道に迷い、背の低い木にひっかかれ、トムは川にコンパスを落とし、僕はもう少しで落ちるところだった。だから、ずぶ濡れの僕たちには、「それほどずぶ濡れていない」アスファルト舗装の駐車場が、じゅうたんを敷いた部屋のように見えた。探せる限り一番乾いているスポットにテントを張り、テントの底を拭いて(テントの中に1センチも水がたまっていた)、ラーメンを食べて眠った。

宮ノ裏岳登頂(約1936m

213日 火曜

2日目

テーク2。朝7時に出発して、彼らは午後4時山頂に着いた。山頂では雪が降っていた。帰り道トムのヘッドライトが電池切れで消えてしまい、危険な下山がさらに刺激的なものになった。夜の11時半、タッチダウン。

Very happy to at last reach the top of Miyano ura Dake翌朝8時、僕たちは例の小屋に向かって歩いていた。ルートを照らす日光のおかげで、すぐに空いている乾いた大きな小屋に到着した。バッグからすべて取り出して辺りに吊るし、乾燥させようとやるだけやってみた。朝食を取り、ここから9時間かかるといわれている山頂に向け、午前10時出発した。

正直、その予測に気がめいった。でも、ほかに選択の余地はない。翌朝、町に帰って島を離れるフェリーに乗れる可能性があるとすれば、今夜あの小屋に戻ってこなければならない。それに、そのフェリーに乗る予定だとあの記者に言ってしまったから、これはプライドにかかわる問題だ!こんな見出しは見たくない!『外人2人百名山登頂を目指し、一番目の山で迷子になる』

Deer after more banana chips登っている途中、樹齢約2200年といわれる太古の杉をいくつか通り過ぎた。シカの集団に会い、何匹かバナナチップをあげた。サルも何匹か見た。途中、雪が所々残っていた。僕たちは6時間で山頂に着いた。雪が降っていた。疲れてずぶ濡れだった。そして、帰る道のりは長い。証拠写真を撮るとすぐ下山を始めた。

暗くなる前に二番の小屋にたどり着いたが、まだ半分も下っていなかった。その小屋を出ると間もなく、トムのヘッドライトが消えてしまった!(運良く僕のは大丈夫だった)しばらくスイッチを切っておくと、時々1分ほど明かりがついた。下りるのにかなり時間がかかり、再び僕たちは枝や、若木や、小枝に所々くっついているピンクのビニールテープをたどって行った。最後の1時間くらいは、僕たち2人とも今朝見た覚えのない道をたどっていた。間違った道を歩いているのではないかと僕は心配になったが、トムには自信があった。そして、ありがたいことにトムは正しかった。

小屋に戻ったのは夜11時半、ぼんやり食事を取り眠りについたのが12時半だった。

214日 水曜

3日目

九州・鹿児島へ戻る朝のフェリーに乗るためには、12キロレースをする以外に良い方法がないと判断。その日は、ラーメンを食べたり、温泉につかったりして過ごし、夜は誰かの駐車場でキャンプをした。

The Generous and hospitable Steve with Paul前の晩遅かったが、すぐに起きて時間内に下山するため朝6時には歩いていた。アスファルトの上を下山するルートは、トレッキング・ポールを使っても苦しかった。フェリー乗り場に1010分に着き、1020分に船は出た。席も取れたし、例の記者にも会えた。

鹿児島に戻ってから温泉に入った。それから、道でばったり英語の先生をしているアメリカ人のスティーブに出会った。彼は自分のアパートのすぐそばで、僕たちに声をかけ、コーヒーに呼んでくれた。彼のチリをたいらげて、たくさんの荷物(ブーツ、アイゼン、ピッケル、その他)を彼の家の置いた。家でコーヒーをごちそうになってから、ラーメン屋に出掛けた。ラーメンを出してくれた人によると、日本中を歩いて来た男性が1ヶ月前この店に立ち寄ったんだってさ!

Tom eats a lot of food1日半21415日)かかって鹿児島市から海岸沿いに南下し、昼食を浜辺で取り桜島の噴煙を眺めた(湾にまたがっている火山で毎日噴火している)。

215日 木曜

4日目

前日、十分休養がとれなかったので、木曜日は池田湖のほとりで過ごす。2人共楽しい時間を過ごした。そして、彼らの服も乾いた。

開聞岳(922m

216日 金曜

5日目

開聞岳。本当に富士山を四分の一の大きさにしたようだ。どうやって、為し得たのか?しかし、このちっちゃな山も、山頂の雪も、何の問題もなかった。

Tom on a stick on Mt Kaimon二番目の山(富士山を四分の一の大きさにしたような形の開聞岳)は、とても楽だった。922メートルまっすぐ登って、下りてくるまで大体3時間くらいだった。ネッシーのような怪獣がいるという池田湖のキャンプ地から7キロ歩き、またのんびりとしたい良い日にもどる。

下山途中、多くの車が僕たちを乗っけてくれようとした。新聞で僕たちのことを知っている人たちも何人かいた。

217日 土曜

6日目

鹿児島市に戻る

The generous sponsor with Paul帰りは、内陸ルートを通って1日ちょっと21718日)かかった。日曜日に鹿児島市に戻ると、新聞を見たという男性から呼び止められた。ウェブサイトをチェックして、チャリティーのお金を上げたいと言ってきた。30ポンドもだ!

218日 日曜

7日目

さらに休息。教会に行った。スティーブの家でフライドチキン、ビール、ワイン。

Tom mends his rucksack. Againカトリック教会を見つけた。でも、僕たちが行ったときにはもう礼拝は終わっていた。それで、僕たちは公園でぶらぶらして、手紙を書いた(というより、僕が手紙を書いて、トムはバックパックを繕っていた。3回目の修繕で、今回使用したのはデンタルフロス!今のところ、これでバッグはもっている。トムはこのバッグ持っていたくないんだけど、新しいのを受け取る手段も無いしね!)。

それから、スティーブの家に向かった。荷物を取りに町へ寄ると電話をしたら、その晩自分のところで泊まっていけばと言ってくれた。なんて、すばらしいんだ。今後、予期せず助けてくれた人たちを「スティーブ」と呼ぶことにする。僕達が泊まるその晩スティーブは周りの友達を招待していて、そのために食料も買っていた。結局、男性ひとりとその彼女が現れただけだったが、スティーブは食べ物を全部料理してくれた。ものすごい量のフライドチキン!それに、大量のビールとワイン!

219日 月曜

8日目

再び休息。次の山頂、韓国岳に向かって二日がかりで半島を歩いていく。

220日 火曜

9日目

滝。温泉の夢。落ち着かない騒がしい夜。

The waterfall where Tom swam2日目、高さ2030メートルのきれいな滝を見つけ、トムは泳ぎに行った。それから、ずっと登り坂になり、かなり多くの温泉場を通り過ぎた。霧島と呼ばれる温泉の豊富なその一帯を歩きながら、足を休められる温泉がひとつくらいはあるのではと期待に胸を大きくふくらませていた。しかし、残念なことに全ての温泉はその上に高級ホテルを構えているか、あるいはホテルの中に汲み上げられていた。登山途中、45匹いるイノシシの家族を目撃!

その夜は、道路壁の陰でキャンプした。その夜は運悪く、くぎのようにとがった、刈った笹の上に寝なければならず、テントに穴をあけないように下にスリーピングマットを敷かなければならなかった(マットは穴が開かないように膨らまさなかった)。さらに悪いことに、その道路は地元のバイク乗りや高級車に乗ったスピード狂にとても人気のレーシング・コースらしかった。夜中の1時から4時まで何度となく高速音、レースのエンジン音、車のライトに見舞われた。変な夜だった。

韓国岳(1796m

221日 水曜

10日目

ちょっとした混乱、ちょっとした階段、ちょっとした鉱滓と、負担になリ始める悪いひざ。

翌朝、三番目の山に向けて自信たっぷり歩き始めた。目指す山道は、持っていたロードマップにさえ記されている。大きくて簡単に登れる道が一番目の火口湖まで伸びていると予想していた。登山口を見つけるのにしばらくかかった。やっと、一番それらしき所を登っていた。どの道を進んでいるか少なくとも分かっているつもりだった。ところが、上流に向かっていると思っていたら、登っていく途中ですごく腐った道しるべに「頂上まで2.7km」と書いてあった。僕たちは、登山ルートにいたのだ。しかも、それは登山ルートとして選ばれていない道なのに、僕たちが見つけてしまったのだ(また、やってしまった)。ちょっとやぶを通り抜けたけれど、最初の噴火口にまずまずの時間で到着。Paul at the top of Mt. Karakunidake

後半はよく使われている登山道だった。しかも、最後の1.1キロは木の階段だった!歩くのには楽だが、脚と尻にはつらかった。これじゃあ、僕たちの足は鉄になってしまうよ。3番目の頂上も霧で景色を見ることはできなかった。

この山は、ちょっとした火山鉱滓の山で、特に下りの道がそうだった。ひざを伸ばすと結構痛かったので、下山がとても大変だった。それから、何時間かアスファルトの道で、渓谷にある町を目指したけれどなかなか近くならなかった。

222日 木曜

11日目

川でぶらぶらし、体を洗って釣りをする。

Paul does a bit of washingA long road次の日は、小さな登山道を選んでいくつか山を越え、主要道路の大きなトンネルを避けた。この道は、きれいな川に沿っていたので、服を洗ったり、体を洗ったり(とても冷たかった)、トムは軽く釣りをしてみたけれど何も釣れなかった。

223日 金曜

12日目

山越えと日本道路建設への評価。

連日1000メートルを超える高い山の峠を越えたのでかなり疲れた。道路(日本人は、驚くほど道路を作る。そして、どこにでも作れる。)のカーブが確かに勾配をゆるやかにしてくれたけど、どこに行くにもすごく時間がかかった。

225日 日曜

14日目

また別の英語の先生と偶然の出会い、休息日2日目、インターネットへのアクセス(そして、このウェブページの更新)、これまでの旅についての考え

Penny with Tom日曜日、また別の英語の先生に泊めてもらった。僕たちは今、緑深い山の中にあるダムのそばの小さな村にいる。休息日2日目だ。その先生とは偶然に出会ったが、なんとトムの同級生だった!その上、キリスト教徒でもあった-これって、できすぎじゃないか?食料品店を探して町を歩いていると、ひとりの女性が車を止めて声をかけてきた。こんな山奥のへんぴな場所で「外人」を見るだけでも驚きなのに、トムが「ペニー、僕だよ、トムだよ!」と叫んだ時には、倒れそうになった。前の晩はここに泊まり、今日はゆっくりして、今夜もここで泊まる。すばらしいことだ。そして、彼女の家でインターネットができた。

Mists over mountan and hill crestsこれまで、本当に特別な瞬間が何度もあった。スティーブに出会ったこと、池田湖での夕焼け、開聞岳に登る途中の景色、イノシシを見たこと、川で泳いだこと、ペニーに会ったこと、キャンプした場所の隣に住んでいた夫婦が食料を一袋くれたこと、まったくの他人からチャリティー用のお金を渡されたこと、30人くらいの子供たちが学校のフェンス越しに走りながら「がんばって!」と通り過ぎる僕たちに向かって大声で言ってくれたこと…。

Some quite forboding terrainこのチームの中でトムの方がはるかに強いメンバーだった。彼は、今までの人生で今回よりはるかに長い距離を歩いてきた。その差は大きいと僕は悟った。僕の足はまだ力強さが欠けていたが、それはトムにも言えることだ。本当に僕が葛藤していたのは、マインドゲームだ。進み続け、歩きながら考えることを考えていた。トムの頭のゲーム部門はよく整理されているみたいだった。

僕のスカルパの靴は、ちょうどいいソックスを履くのに半サイズくらい小さすぎた。それぞれの足に3つずつマメができてやっとその事に気が付いた。今は、ブリッジデイルのクールマックス・ソックスで過ごしているけど、運悪く持ってきたのはこの一足だけだった。旅の始めの段階ではハイキングソックスを履こうと思っていたからだ。チャンスがあれば必ず洗っているけれど、それでも結構臭くて、あまり長く持つとは思えなかった。マメは、よくなってきた。右のかかとが痛いけど、テーピングすれば大丈夫だ。右ひざは、曲げる角度や疲れ具合によって痛さが様々だった。でも、このふたつは歩くことの妨げにならない。トムは、元気いっぱいだ。ここ2日間トムは僕のペースで歩いて、彼が食べる分より多くの食料を背負っていたのに!

 

Paul fixes up his foot最初に休もうと言い出すのも、その日の旅を最初にストップするのも大体いつも僕だった。僕は言い張った、何週間かたたないと体が慣れないと。でも、トムは2人共今からでも40キロ歩けると自信満々だ。なんて奴だ!屋久島での悪夢の3日間からちゃんとした回復期間を取っていないから、僕はひざとかかとのことを本当に考えたかったんだ。

この最終週で、僕はすごくへこまされた。自分がチームの足を引っ張ったり、びっこで山を下りたりというのは今までの僕には考えられなかったから。でも、この休息日はすばらしいものだった。道でペニーが僕たちに会ったのは神の為せる技に違いない。歩く苦しみはすぐに忘れられた。どんなにその日苦しいことが起こっても次の朝必ず出発することができる。これは、僕たちのために祈ってくれている人たちがいるからだと僕は思う。

祖母山(1757m

228日 水曜

17日目

Tom and Paul, reunited, at the top of Mt. Soboお互いを見失い、また見つけ出し、短時間で登山終了。

祖母山は、雲に包まれ、道は凍り、笹が生い茂っていたので厄介だった。ちょっとの間、彼らはお互いを見失った。今後の不測事態に備えて対応計画を持つきっかけになった。けれども、2時間足らずで頂上に着いた。その日の30キロは、阿蘇山に向けていい準備運動になった。

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